1 実施日時 令和4年1月17日(月)8時30分〜(校内放送)
2 内 容 ⑴ 放送による追悼のことば
⑵ 30秒間の黙祷
⑶ 半旗の掲揚
3 学校長による追悼の言葉
みなさん、おはようございます。
今からちょうど27年前の1月17日の朝5時46分、淡路島北部を震源とするマグニチュード7.3、国内観測史上初の震度7の大都市直下型地震が兵庫県南部を襲いました。多くの建物が倒壊し、その後、神戸市内では大火災が発生。犠牲者は6,434名を数え、本校も在校生2名を含む関係者12名の尊い命が奪われました。
私も神戸市灘区で地震に遭い、隣で眠っていた当時4歳と2歳の子供たちを守るのに必死で、人生後にも先にもあんなに恐ろしい経験をしたことはありません。それは、夜明け前の浅い眠りの中のことでした。ゴーという音が聞こえた気がしました。次の瞬間、下から何度も突き上げられ寝ている体が宙に浮いた気がしました。続いて、左右に引き摺るように強く揺さぶられ、「いつまでこの揺れは続くんだ。もう勘弁してくれ」という気持ちになったことを思い出します。
本校は、激震地として全国にリアルな映像が繰り返し流れた二つの災害地のちょうど中間にあります。その一つは、大勢の人が生き埋めになって亡くなられた仁川の上流、百合野町の地滑り現場、もう一つは甲東園駅の南、阪急今津線と新幹線が交差する阪急の線路上に、なんと新幹線の高架が落下したのです。その二つの現場を結ぶちょうど中間に本校は位置していたことから、当然、被害はすさまじく、C棟・D棟・E棟は全壊し、職員室のあるA棟と講堂が半壊、音楽棟、体育館は一部損壊と後に診断され、奇跡的にB棟だけは無傷ですみました。ちなみに、今のC棟・D棟・E棟は震災後に建て替えたもので、その他の校舎は修繕をしています。教室の中はというと、ほとんどの机や椅子はひっくり返り、職員室や準備室のロッカーも倒れ、本や書類が散乱。ガラスが割れている部屋も多くありました。特に職員室は余震でいつ2階から上の重みでペチャンコになってしまうかもしれない上に、足の踏み場もなく、片付けをするにもどこから手をつけていいのか、途方に暮れる状況でした。鍵のかかっていた部屋を開ける際に、室内の中がどうなっているかを見るのが怖くなり、ためらったことを覚えています。体育館も地域の避難所となり、一時は600人を超える地域住民が着の身着のままで避難して来られました。グランドもあっという間に避難した人々の車で埋まっていました。地震の直後は、すべてのライフラインが止まり、トイレの水はプールを何往復もしてバケツを並べて用意しました。もちろん、お風呂も入れません。数日して、電話、電気、水道、ガスの順に復旧していきましたが、授業再開どころか全ての交通機関がストップして生徒たちは学校へ来ることもできません。校内は立入禁止の張り紙だらけで、しばらく学校再開はできないと思われました。しかし、数日後、グランドにある避難してこられた方の車を全て移動させてもらうと同時に、全国から他府県ナンバーのトラックが入り、あっという間にプレハブの仮設校舎ができました。そして、阪急電車が動き出した半月後の2月から3限スタートの変則授業が始まりました。この学校再開の日は友との再会を喜び合っていたことを懐かしく思い出します。また、全国各地から救援物資を届けていただき、その中にはX−JAPANが本校にピアノを寄贈してくださり、今もそのピアノは講堂で存在感を示しています。
そのような中、忘れられないのは、県立高校で最も被害が大きかったであろう県西の生徒たちが、この日を境に強くなったことです。当たり前の恵まれた環境から一転、仮設校舎でグランドも使えない、そしていつまた大地震に見舞われるかもしれない恐怖の中で、県西の生徒たちは逆境を見事に跳ね返していきました。地域にボランティアに出かけて家屋の片付けを手伝ったり、授業の集中力も部活動の成果も見違えるように上がり、結果を出していきました。人間が追い込まれた時の底力のすごさ、気持ちの持ち方の大切さを私に教えてくれたのも、当時の生徒たちのひたむきな姿でした。
本日は皆さんが生まれる前の震災の様子を私が見聞きした体験からご紹介しました。こうして多くの命と財産を奪われた私たちですが、生活を立て直すために、互いに協力し、復興の道のりを今日まで27年間、歩んできました。
自然災害はいつ起こるかわかりません。今後30年以内に南海トラフ地震が発生する確率は70〜80%とされています。また近年、大雨や台風による被害等、各地で大規模な洪水や土砂災害が発生していることに加え、昨日も津波警報が出て心配しました。これらの災害に対して被害をできるだけ少なくするためには、防災・減災意識を高め、自らの命を守るために、主体的に判断し行動する力を身につけてほしいのです。だからこそ、避難訓練では真剣な行動、また地震を感じた瞬間には姿勢を低くして頭と身体を守って揺れが収まるまで待つ行動が求められるのです。
本日は、阪神・淡路大震災の経験や教訓を活かし、次の災害に備える安全で安心な社会づくりを期する日です。
最後に、震災でお亡くなりになられた方々に、黙祷を捧げます。
それではみなさん、その場でご起立をお願いします。
<黙祷>
黙祷を終わります。着席してください。
以上で、阪神・淡路大震災27年追悼のことばとします。
2 内 容 ⑴ 放送による追悼のことば
⑵ 30秒間の黙祷
⑶ 半旗の掲揚
3 学校長による追悼の言葉
みなさん、おはようございます。
今からちょうど27年前の1月17日の朝5時46分、淡路島北部を震源とするマグニチュード7.3、国内観測史上初の震度7の大都市直下型地震が兵庫県南部を襲いました。多くの建物が倒壊し、その後、神戸市内では大火災が発生。犠牲者は6,434名を数え、本校も在校生2名を含む関係者12名の尊い命が奪われました。
私も神戸市灘区で地震に遭い、隣で眠っていた当時4歳と2歳の子供たちを守るのに必死で、人生後にも先にもあんなに恐ろしい経験をしたことはありません。それは、夜明け前の浅い眠りの中のことでした。ゴーという音が聞こえた気がしました。次の瞬間、下から何度も突き上げられ寝ている体が宙に浮いた気がしました。続いて、左右に引き摺るように強く揺さぶられ、「いつまでこの揺れは続くんだ。もう勘弁してくれ」という気持ちになったことを思い出します。
本校は、激震地として全国にリアルな映像が繰り返し流れた二つの災害地のちょうど中間にあります。その一つは、大勢の人が生き埋めになって亡くなられた仁川の上流、百合野町の地滑り現場、もう一つは甲東園駅の南、阪急今津線と新幹線が交差する阪急の線路上に、なんと新幹線の高架が落下したのです。その二つの現場を結ぶちょうど中間に本校は位置していたことから、当然、被害はすさまじく、C棟・D棟・E棟は全壊し、職員室のあるA棟と講堂が半壊、音楽棟、体育館は一部損壊と後に診断され、奇跡的にB棟だけは無傷ですみました。ちなみに、今のC棟・D棟・E棟は震災後に建て替えたもので、その他の校舎は修繕をしています。教室の中はというと、ほとんどの机や椅子はひっくり返り、職員室や準備室のロッカーも倒れ、本や書類が散乱。ガラスが割れている部屋も多くありました。特に職員室は余震でいつ2階から上の重みでペチャンコになってしまうかもしれない上に、足の踏み場もなく、片付けをするにもどこから手をつけていいのか、途方に暮れる状況でした。鍵のかかっていた部屋を開ける際に、室内の中がどうなっているかを見るのが怖くなり、ためらったことを覚えています。体育館も地域の避難所となり、一時は600人を超える地域住民が着の身着のままで避難して来られました。グランドもあっという間に避難した人々の車で埋まっていました。地震の直後は、すべてのライフラインが止まり、トイレの水はプールを何往復もしてバケツを並べて用意しました。もちろん、お風呂も入れません。数日して、電話、電気、水道、ガスの順に復旧していきましたが、授業再開どころか全ての交通機関がストップして生徒たちは学校へ来ることもできません。校内は立入禁止の張り紙だらけで、しばらく学校再開はできないと思われました。しかし、数日後、グランドにある避難してこられた方の車を全て移動させてもらうと同時に、全国から他府県ナンバーのトラックが入り、あっという間にプレハブの仮設校舎ができました。そして、阪急電車が動き出した半月後の2月から3限スタートの変則授業が始まりました。この学校再開の日は友との再会を喜び合っていたことを懐かしく思い出します。また、全国各地から救援物資を届けていただき、その中にはX−JAPANが本校にピアノを寄贈してくださり、今もそのピアノは講堂で存在感を示しています。
そのような中、忘れられないのは、県立高校で最も被害が大きかったであろう県西の生徒たちが、この日を境に強くなったことです。当たり前の恵まれた環境から一転、仮設校舎でグランドも使えない、そしていつまた大地震に見舞われるかもしれない恐怖の中で、県西の生徒たちは逆境を見事に跳ね返していきました。地域にボランティアに出かけて家屋の片付けを手伝ったり、授業の集中力も部活動の成果も見違えるように上がり、結果を出していきました。人間が追い込まれた時の底力のすごさ、気持ちの持ち方の大切さを私に教えてくれたのも、当時の生徒たちのひたむきな姿でした。
本日は皆さんが生まれる前の震災の様子を私が見聞きした体験からご紹介しました。こうして多くの命と財産を奪われた私たちですが、生活を立て直すために、互いに協力し、復興の道のりを今日まで27年間、歩んできました。
自然災害はいつ起こるかわかりません。今後30年以内に南海トラフ地震が発生する確率は70〜80%とされています。また近年、大雨や台風による被害等、各地で大規模な洪水や土砂災害が発生していることに加え、昨日も津波警報が出て心配しました。これらの災害に対して被害をできるだけ少なくするためには、防災・減災意識を高め、自らの命を守るために、主体的に判断し行動する力を身につけてほしいのです。だからこそ、避難訓練では真剣な行動、また地震を感じた瞬間には姿勢を低くして頭と身体を守って揺れが収まるまで待つ行動が求められるのです。
本日は、阪神・淡路大震災の経験や教訓を活かし、次の災害に備える安全で安心な社会づくりを期する日です。
最後に、震災でお亡くなりになられた方々に、黙祷を捧げます。
それではみなさん、その場でご起立をお願いします。
<黙祷>
黙祷を終わります。着席してください。
以上で、阪神・淡路大震災27年追悼のことばとします。

