2021年01月15日

令和2年度 震災追悼行事(震災26年)

1 実施日時  令和3年1月15日(金)8時31分〜(校内放送)
2 内  容  ⑴ 放送による追悼の言葉
        ⑵ 20秒間の黙祷
3 追悼の言葉
みなさん、おはようございます。
 「夜明けはいつも美しく希望に満ちていなければならない。平成7年(1995年)1月17日という日は、私たちにとって夜明けはなかった。兵庫県南部を襲った阪神・淡路大震災は、一瞬のうちに私たちから希望の全てを奪い去ってしまった。一番耐えがたかったのは、県下で6,000名を超える方々が犠牲となられ、本校でも2名の生徒を含む卒業生・教職員の家族、合わせて12名のかけがえのない命が失われたことだ。私はその生徒の訃報を2年生の修学旅行団とともに行先不安な帰路についていたバスの中で知った。沈痛な思いの帰路であった。なぜ西宮でその苦しみを共にできなかったのか。悔やんでもどうにもならない自責の思いが心中を何度も往来した。帰ってから、救出に何人もの仲間が加わってくれたことを聞いた。目頭が熱くなった。私にはご冥福を祈ることしかできない。」
 これは、当時の藤井幹雄校長先生のお言葉です。昨年は県下の高校で最も大きな被害を受けた県西の様子や復旧までの苦労を中心にお話をしましたので、本日は亡くなった2名の生徒、当時3年生の福田斉子さんと1年生の秋山高広君を偲んで、当時の関係者の手記をご紹介します。

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 まずは、旧職員I先生の学級通信から福田さんに向けた「忘れないでおこう」です。
 1995年1月17日火曜日午前5時46分、僕は便所で用を足しながら雑誌を読んでいた。最初は弱い揺れだったが、徐々に増幅され、ある時点から嘘のように揺れ出した。その短く長い時間で多くのことが頭の中をよぎった。特に、人に見られたくない姿で未曾有の災害に見舞われたということがどうしても納得いかなかった。惨めだなと思った。この瞬間の思いが震災以来、ずっと心にひっかかっている。
 10時頃だったか、IとKが学校にやってきてくれた。仁川百合野町では大規模な崩落が発生し、4組の福田の家が飲み込まれたという。信じられなかったが、泥まみれの二人の服装は朝からの救出作業を物語っていた。T先生※と車で見にいくことにした。仁川にかかる水道管を越え、道なりに右に曲がると突然、膨大な量の土石が視界を遮った。道の途切れるところで車を止めた。その場所でさえ、人の身長よりもはるかに高く積もっていた。川の流れていたところには土石の丘ができていた。丘に登るとあたりが一望できた。左手の彼方には斜面を剥ぎ取られた崖が白々と見えた。右手では生存した人が家財をトラックに積んでいた。Kと9組のTがその作業を助けていた。土石が周囲を圧倒していて、とても静かだった。この土石と戦って、何とか福田を助けようとしたI、K、K、Tらは立派だと思った。
 翌日はE先生と現場に行った。昨日とはすっかり様変わりしていた。30名ほどの機動隊がパワーシャベルを使って発掘していた。多くの人が集まって、口々に噂をしながら作業を見ていた。ヘリコプターが低空を旋回し、新聞社やテレビ局も取材に来ていた。こんな衆人環視の中で、福田家の捜索は続けられた。パワーシャベルが唸りをあげて瓦礫をすくいあげるごとに、秘密が一つずつ剥ぎ取られていくようだった。空しいほどの太い柱、福田の大切にしていたテニスラケット、泥だらけの蒲団、修学旅行の写真を貼ったアルバム、そんなもの全てが一緒くたになってすくい上げられた。何か出てくるたびに人々は好奇を露わにして身を乗り出した。そこに福田のプライバシーはなかった。人としての権利はなかった。それが死ぬということだと思った時、初めて福田の死を覚悟した。もう二度と福田と話をすることがないのだと思うと無性に悲しかった。
 今も福田の笑顔が思い出される。自分が知っている限りの彼女の明るさ、素直さ、熱心さ、真面目さを覚えておこうと思う。それを思い出す時、彼女はかけがえのない人として心の中に再び生きる。思い出すことは胸が締めつけられるように辛いことだが、辛ければ辛いだけ彼女は生き生きと蘇る。そして僕が生き続ける限り、僕と共に生きる。みんなも福田と繋がりのあった人は覚えておこう。みんなが生き続ける限り、福田もみんなと共に生きる。たまたま生き残った僕らには、そんなことぐらいしかできないと思う。
※5月26日の県西ブログでも「県西のレジェンド教師の草刈りボランティア」としてご紹介したT先生。学校再開前に学校に駆けつけられ、皆さんが登校した時のために、憩いの広場の芝生をきれいにしたいと草刈りをして下さった先生です。
 次は、幼なじみの友人E君から秋山君に向けた手記です。
今までの様々な僕の思い出には必ずといってもよいくらい秋山君が関わっています。
 日曜スポーツクラブではサッカーをやっていました。とりあえず言葉では言い切れないほど弱かった。
 少年野球チームでは松籟荘チームとして燃えまくった。サッカーにしろ野球にしろ僕も秋山君も特に練習好きで、朝から晩まで練習したこともよくあった。その成果が少年野球の試合で現れ、見事に準優勝、銀メダルを獲得した。この少年野球の思い出は僕の今までの思い出の中で一番印象に残っています。中学に入ってもよく秋山君とは少年野球のことについて話したりしていました。
 Jリーグが始まったのがちょうどこの年で、僕も秋山君もすっかりサッカーにはまってしまいました。秋山君はとてもいいセンスがあり、僕なんかよりずっと上手でした。僕はクラブが休みの日などはよく秋山君の家の前の細い道でサッカーの練習をしました。時にははまりすぎて肉離れになったこともありました。あれは痛かった…。ほかにも本当にたくさんの、言葉では言い切れない思い出があります。
 今思えば、秋山君と最後に交わした言葉が何であったか気になります。
 これはあまり良くないことかも知れないけれど、僕とT君は今でも秋山君の死という現実を信じていません。信じたくないというよりも、いつもいつも笑っていたあの秋山君の顔をもう見ることができないなどということがあるはずがないからです。
あいつの顔がひんやり冷たかった時、左手が固まってしまって手が組めない状態であるあいつを見た時、今まで自分で必死に泣くな!泣くな!と思っていた心の糸が突然ぷっつんと切れてしまい、次第に大粒の涙でもう何がなんだか分からなくなりました。何度も何度も声をかけたのにあいつは全然目を開けようとはしてくれませんでした。誰でもいいから秋山がどうしたら目を開けて、いつものあの笑顔を見せてくれるのか、本当に教えてほしかった。どうしていつもあいつだけがこんな目にあわなくてはならないのか。僕は本当に神を恨みました。一体秋山が何をしてんと聞きたかった。あいつは何も悪いことはしていません。誰もが断言できるはずです。ただ、普通に朝に起き、学校に行き、勉強し、遊びしていただけなのです。
 僕は秋山君のような友達をもっていることを誇りに思います。これからも色々秋山君に迷惑をかけるつもりです。
本日は志半ばでこの世を去った先輩のお話を、ご紹介しました。2人の先輩が天国から県西の後輩たちを見守ってくれていますので、皆さんにはこれからも明るく楽しく、時には泣いたり笑ったりしながら、すばらしい人生を歩んでいってほしいと願っています。
最後に、震災でお亡くなりになられた方々に、黙祷を捧げます。
それではみなさん、その場でご起立をお願いします。
<黙祷>
黙祷を終わります。着席してください。
以上で、阪神・淡路大震災26年追悼の言葉とします。
最後に、3年次の皆さんへ、明日からの大学入学共通テストでの健闘を心からお祈りしています。頑張って下さい。
posted by 県西ブログ at 17:05| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする