本日、8時30分過ぎより、放送室から校長先生の追悼放送がありました。
阪神・淡路大震災追悼行事(震災25年)追悼の言葉
今からちょうど25年前の1月17日の朝5時46分、マグニチュード7.3、国内史上初の震度7の巨大地震が兵庫県南部を襲いました。多くの建物が倒壊し、その後、神戸市内では大火災が発生し、犠牲者は6,434名を数え、本校も在校生2名を含む関係者12名の尊い命が奪われました。
私は教諭として県西に戻り、7年目の冬。神戸市灘区の自宅で大地震に遭遇し、4歳と2歳の子供を守るのが精一杯で、人生後にも先にもあんなに恐ろしい経験はありません。当時の体験を語ると時間がありませんので、今日は県西と大震災についてお話をします。
本校は、全国に激震地としてリアルな映像が繰り返し伝えられた二つの災害地の中間にありました。その一つは、大勢の人が生き埋めになって亡くなられた仁川百合野町の地滑り現場、もう一つは阪急甲東園駅の南、今津線と新幹線が交差する阪急の線路上になんと新幹線の高架が落下したのです。その現場を結ぶちょうど中間に位置したことから、当然、本校の被害はすさまじく、C棟・D棟・E棟は全壊、A棟、講堂、そして昨年取り壊した旧図書館が半壊、音楽棟、体育館は一部損壊と診断され、奇跡的にB棟だけが無傷ですみました。しかし、校舎内はどの教室もほとんどの机、椅子、ロッカーは転倒し、本や書類が散乱。ガラスが割れているところもあり、職員室は余震でいつ2階以上の重みでペチャンコになるかもしれない上に、足の踏み場もない状況で、片付けをするにもどこから手をつければいいのか、途方に暮れる状況でした。鍵のかかっていた部屋を開ける際に、中の惨状を見るのが怖く、ためらったことを覚えています。体育館も地域の避難所となり、地域住民が多い時には600人が着の身着のままで避難して来られました。グランドもあっという間に車で埋まっていました。直後は、すべてのライフラインは止まり、トイレの水もプールを何往復もしてバケツを並べ、自宅でお風呂も入れなくなりました。数日して、電話、電気、水道、ガスの順に復旧していきましたが、授業再開どころか全ての交通機関がストップして生徒たちは学校へ来ることもできません。校内は立入禁止の張り紙だらけで、しばらく学校再開はできないと思われました。しかし、数日後、学校再開に向けてグランドの車を移動させてもらい、プレハブの仮設校舎があっという間に建ち並び、阪急電車が動き出した半月後の2月1日から3限スタートの変則授業が始まりました。当初は、学校へ行けなくなったことを喜んでいた生徒も一部にいましたが、この学校再開時は友との再会を喜び合っていたことを懐かしく思い出します。また、全国各地から救援物資を届けていただきましたが、その中にX−JAPANが被害の大きかった音楽科のある高校へとピアノを寄贈してくださり、今もそのピアノは講堂で存在感を示しています。さらに忘れられないのは、県立高校で最も被害が大きかったであろう県西の生徒たちが、この日を境に強くなったことです。当たり前の恵まれた環境から一転、仮設校舎でグランドもなく、いつまた大地震に見舞われるかもしれない恐怖の中で、県西の生徒たちは逆境を見事に跳ね返しました。地域にボランティアに出かけて家屋の片付けを手伝ったり、授業の集中力も部活動の成果も見違えるように上がり、結果を出していきました。人間が追い込まれた時の底力のすごさ、気持ちの持ち方の大切さを私に教えてくれたのも、当時の生徒たちでした。
本日は皆さんが生まれる前の震災時の本校の様子をほんの一部ですが、ご紹介しました。こうして多くの命と財産を奪われた私たちですが、生活を立て直すために、互いに協力し、復興の道のりを今日まで25年間、歩んできたのです。
自然災害はいつ起こるかわかりません。今後30年以内に南海トラフ地震が発生する確率は70〜80%とされています。また近年、西日本豪雨や昨年秋の台風による被害等、各地で大規模な洪水や土砂災害が発生しています。これらの災害に対して被害をできるだけ少なくするためには、防災・減災意識を高め、自らの命を守るために、主体的に判断し行動する力を身につけてほしいのです。
本日は、阪神・淡路大震災の経験や教訓を活かし、次の災害に備える安全で安心な社会づくりを期する日です。
最後に、震災でお亡くなりになられた方々に、黙祷を捧げます。
私は教諭として県西に戻り、7年目の冬。神戸市灘区の自宅で大地震に遭遇し、4歳と2歳の子供を守るのが精一杯で、人生後にも先にもあんなに恐ろしい経験はありません。当時の体験を語ると時間がありませんので、今日は県西と大震災についてお話をします。
本校は、全国に激震地としてリアルな映像が繰り返し伝えられた二つの災害地の中間にありました。その一つは、大勢の人が生き埋めになって亡くなられた仁川百合野町の地滑り現場、もう一つは阪急甲東園駅の南、今津線と新幹線が交差する阪急の線路上になんと新幹線の高架が落下したのです。その現場を結ぶちょうど中間に位置したことから、当然、本校の被害はすさまじく、C棟・D棟・E棟は全壊、A棟、講堂、そして昨年取り壊した旧図書館が半壊、音楽棟、体育館は一部損壊と診断され、奇跡的にB棟だけが無傷ですみました。しかし、校舎内はどの教室もほとんどの机、椅子、ロッカーは転倒し、本や書類が散乱。ガラスが割れているところもあり、職員室は余震でいつ2階以上の重みでペチャンコになるかもしれない上に、足の踏み場もない状況で、片付けをするにもどこから手をつければいいのか、途方に暮れる状況でした。鍵のかかっていた部屋を開ける際に、中の惨状を見るのが怖く、ためらったことを覚えています。体育館も地域の避難所となり、地域住民が多い時には600人が着の身着のままで避難して来られました。グランドもあっという間に車で埋まっていました。直後は、すべてのライフラインは止まり、トイレの水もプールを何往復もしてバケツを並べ、自宅でお風呂も入れなくなりました。数日して、電話、電気、水道、ガスの順に復旧していきましたが、授業再開どころか全ての交通機関がストップして生徒たちは学校へ来ることもできません。校内は立入禁止の張り紙だらけで、しばらく学校再開はできないと思われました。しかし、数日後、学校再開に向けてグランドの車を移動させてもらい、プレハブの仮設校舎があっという間に建ち並び、阪急電車が動き出した半月後の2月1日から3限スタートの変則授業が始まりました。当初は、学校へ行けなくなったことを喜んでいた生徒も一部にいましたが、この学校再開時は友との再会を喜び合っていたことを懐かしく思い出します。また、全国各地から救援物資を届けていただきましたが、その中にX−JAPANが被害の大きかった音楽科のある高校へとピアノを寄贈してくださり、今もそのピアノは講堂で存在感を示しています。さらに忘れられないのは、県立高校で最も被害が大きかったであろう県西の生徒たちが、この日を境に強くなったことです。当たり前の恵まれた環境から一転、仮設校舎でグランドもなく、いつまた大地震に見舞われるかもしれない恐怖の中で、県西の生徒たちは逆境を見事に跳ね返しました。地域にボランティアに出かけて家屋の片付けを手伝ったり、授業の集中力も部活動の成果も見違えるように上がり、結果を出していきました。人間が追い込まれた時の底力のすごさ、気持ちの持ち方の大切さを私に教えてくれたのも、当時の生徒たちでした。
本日は皆さんが生まれる前の震災時の本校の様子をほんの一部ですが、ご紹介しました。こうして多くの命と財産を奪われた私たちですが、生活を立て直すために、互いに協力し、復興の道のりを今日まで25年間、歩んできたのです。
自然災害はいつ起こるかわかりません。今後30年以内に南海トラフ地震が発生する確率は70〜80%とされています。また近年、西日本豪雨や昨年秋の台風による被害等、各地で大規模な洪水や土砂災害が発生しています。これらの災害に対して被害をできるだけ少なくするためには、防災・減災意識を高め、自らの命を守るために、主体的に判断し行動する力を身につけてほしいのです。
本日は、阪神・淡路大震災の経験や教訓を活かし、次の災害に備える安全で安心な社会づくりを期する日です。
最後に、震災でお亡くなりになられた方々に、黙祷を捧げます。
<黙祷> (30秒)
黙祷を終わります。
以上で、阪神・淡路大震災25年追悼の言葉とします。
以上で、阪神・淡路大震災25年追悼の言葉とします。

